諏訪地方の独自性の再発見は柳田国男の『石神問答』に始まる。少なくとも自分はそれによって開眼した。
再刊序を引いておく。
武蔵では東秋留の二宮一岬枇の境内に、今もまだ一座の枇宮司社の残って居ることを、この春の散歩の日に見つけて来た。
附近の人たちはオシャモジ様と呼ぴ、やはり飯杓子を上げて嬰児の安全を勝つ一て居る。捜したらこの外にも幾づか有らうと思うが、大体にこの信仰はもうよほど前から衰へて居るので、単に百数十年前の諸州の地誌類に、可なり数多く其紳の名が記録せられておるのを見るだけである。
私は賓はシヤクジは石神の音読であらうといふ、故山中先生の解説に反封であったばかりに、この様な長たらしい論難往復を重ねたのであうたが、その点は先生も強く主張せられたわけでも無く、又あれから信州誠訪社の御左口神のことが少しづ判って来て、是は木の紳であったことが先づ明かになり、もう此部分だけは決定したと一日び得る。しかもどういふわけで枇宮司・枇護紳・遮軍神など、いふ様な幾た神の名が、弘く中部地方とその隣接地とだけに行はれて居るのか、諏訪が根源かといふ推測は仮に賞って居るにしても、共信仰だけが分離して各地に分布して居る理由に至うては、三十年後の今日もまだ少しも蒋くことが出来ないのである。
この序文だけでも石神の追求に格段の進歩があり、そして謎の根源は絞り込まれてきていることがわかる。
オシャモジ様は石神であり、シャクジもまた、そうだった(柳田は誤解したまま)
発生のみなもとは諏訪の大社に鎮座するミシャグチ(御左口神)にあることが記されている。でも「是は木の紳であった」わけではない。柳田は『神樹考』で諏訪の御柱祭が
各地で行われている柱に樹を供える事象から、そう唱えているがこれは過ちだ。
御柱祭は縄文遺跡のウッドサークルに端を発する最古層の儀式だと多くの研究者は信じているのだ。
しかし、『石神問答』の公表はおおくの影響を残した。例えば、南方熊楠は鉄格子の内側でこの書を差し入れされたという。幸田露伴も論評を残している。
目次がその多様性をものがたる。
さらに「しゅく」という語韻が日本史の隠された内面をつらぬくことが、続々と明らかにされる。
能の起源にいる秦野河勝は「おおさけ神社」に「うつろ船」で流される。それは世阿弥の著作に書かれており、坂越というその神社のある兵庫県の地名も「しゅく」に関わる。
芸能の神である「摩多羅神」が天台宗の円仁とともに到来し、密かに各地で信仰されている。この神も「宿」の神として芸能の世界に君臨する。それが明らかになるのは服部幸雄の『宿神論』であり、平成時代になってからだ。
中世説話の宇宙においては「諏訪本地」、つまり、甲賀三郎伝承は強烈な存在感をもつ。甲賀三郎は地底をさまよううちに蛇神となり、諏訪の本地にまつられる。
これの異質な要素は諏訪というオンファロスを中心に混合される異世界だ。
縄文期の世界を再生させようとした最後の縄文系考古学者は、藤森栄一だ。
中世において日本の固有信仰を生み出す、大きな地殻変動が起きた。国土の地層と同じく、最古層と中層部と外来層が攪拌されたのだ。
それが諏訪という土地に起きたのは偶然ではあるまい。西と東、北と南の街道の要衝であり、固有の血縁と地縁が保存された土地柄であるからこそ、この攪拌が起きた。
諏訪のメンタルマップ