ウルリッヒ・ベックの「リスク社会論」(1986)は現代社会の予兆を描いていたといえる。科学技術の拡大とコモディティ化が進行した20世紀後半に、リスクは変容した。
いわゆる成長と発展への巨大な制動力として急速に拡散したのだ。
公害を思い出そう。日本は発祥の地の一つだった。四日市喘息、水俣病等々と各地で工場廃棄物が人々の健康を損ねていった時代。それを「地球温暖化」や「PM2.5」と比べてみよう。
地域の枠を飛び出して、地域と国境、そして海すらも越境している。すなわち危源あるいはリスクは閉じ込められるものではなくなっている。
地球環境問題という総称がかつての公害を圧倒した存在感を持つようになっている。
COVID19も同様であった。一地域に封じ込めてそこで根絶させる…そういう手法が働かなかった。
つまりは、現代文明はリスクの制御に失敗しだしている。
どうして、そういう事態に立ち至ったのか?
核兵器に関するリスクがその拡散問題の分析に向いているようだ。
冷戦時代には五大国(安全保障理事会の常任理事国)が核戦力の保有国であった。
彼らの核への統治力は暫くは機能していた。しかし、原子爆弾の開発に関する技術はプルトニウムの製造という点がボトルネックであったが、容易に模倣できるものになっていった。インドとパキスタンがその悪しきブレイクスルーを成し遂げた。
イスラエルと北朝鮮も核先進国の技術流出により核爆弾を保有するに至った。
「統治能力の喪失」により「機密情報」の流出、それに民族国家の危機感とエゴイズムが動機となって、今のような核兵器の火薬庫のほくち箱状態にいたるのだ。
二つの側面がある。すなわち、危険源の拡散とその便乗もしくは無関心だ。
温暖化ガスの発生源は今や五大陸のどこにもある。そして、その抑制については無関心か便乗が多くの場所と人びとでみられるわけだ。
この拡散をとどめることが出来ないのは現代社会が「成長モデル」のタイプをワンパターンにしているからだ。「豊かさ」の理想像と産業の在り方が決まったあり方なのが
問題だと指摘しておきたい。