ゴジラ映画の作曲家として知られる伊福部昭だが、その青壮年期は太平洋戦争をまたいでいる。この時期の彼の楽曲はソ連のショスタコーヴィチやプロコフィエフを想起させる。
「兵士の序楽」(1944)
『交響譚詩』(1943)
トロント、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、シアトル、ロンドン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ホノルル。これらは、ここ数年で路上生活者の急増が報じられた都市の一部だ。
原因はわかっている。強烈なインフレーションと都市部の不動産価格の急伸だ。
ホノルルを除き、いずれも大都会だ。景気好調あるいは意味は違うがGDPが増大しているとウハウハの政治家と金持ちの国に属していることだろう。
また、殺人などの犯罪事件で話題になるのはアメリカの都会が多いのは、周知の事実だろう。
まるでバットマンの生まれた架空の町「ゴッサムシティ」のようなありさまではないか。
10年ほど前に亡くなったジェイン・ジェイコブスはなんというだろう。彼女は大都市における歩道とそのコミュニティの重要さを強調した思想家だ。彼女の主張は多大な影響を与えたというのだが、このアメリカの現状を見たら、切歯扼腕するだろう。
1960年代にNYの都市開発計画での社会論争&闘争のイデオロギーを提供者した人物でもある。自動車を優先する都市開発へNoを突き付けたのは先見の明があった。
だが、彼女の最後の著作は『壊れゆくアメリカ』だったのは、象徴的だ。
ハイデッガーと道元を合わせ読み込みして、時間の内在的な特質に迫る。木村敏のような鋭敏でボーダーレスな知性ならではの思考と手腕だろう。
木村によればアリストテレスの形而上学の時間論はハイデッガー経由で解釈学的に読解するのが、より始原的か。自然科学の「時間」は幾何学化され記号化されて、さらに計数化されて無味無臭な抽象概念になっているが故に、至る所で役に立つ。「もの」化された極限としての「時間」論ならば、自然科学の独壇場だろう。
でも、それはクオリアを欠く。つまり「こと」にはなりえない。私がいまここにあること。これが内在的な時の在り方だろう。やはり原初のことばで質感を帯びた「とき」を語り尽くす方が、「時とは何か」という問いには寄り添っているのだろう。
木村敏は専門の哲学者ではないから、かえって時間の不分明に分かりやすい道しるべを与えてくれるのかな。
惜しい人物を亡くしたものだ。
ディックといえばSF作家のフィリップ・キンドレド・ディックだ。
彼の作品はいまだに光芒を放ち、一部の読者を魅了しつづけている。
ひと頃の英米SFの三大巨匠、ハインライン、アシモフ、クラークはディックに比べるとアクチュアリティに乏しいと感じる読者がいて、自分もその一人だ。
映画の原作としても、
ブレードランナー(1982年)
トータル・リコール(1990年)
バルジョーでいこう!(1992年)
スクリーマーズ(1995年)
クローン(2001年)
マイノリティ・リポート(2002年)
ペイチェック 消された記憶(2003年)
スキャナー・ダークリー(2006年)
NEXT -ネクスト-(2007年)
アジャストメント(2011年)
トータル・リコール(2012年)
とこれだけある。あのヒューゴ賞受賞作でもある奇妙なパラレルワールドの『高い城の男』でさえ、Amazonオリジナルドラマになった。
しかし、彼はそれ以上にアメリカの21世紀の現実を予知していたと思う。
陰謀論がまかり通るような現実と幻想が入れ混じるメディアと言論、オピオイドや鎮痛剤などのドラッグ漬けのアメリカンスピリッツ、そして社会的&政治的なエントロピーが荒れ狂うアメリカ社会を、1982年に死去したこの作家は如実に物語り化したといっても言い過ぎではないのでないか。
半世紀前の預言者と言えるのではないか?
そして、苦悩する預言者としてのディックの論評はなかったのではないかなあ。
でも、その理由を余すところなく立論した批評というものにはめぐり逢うことはなかった。確かにスタニスラフ・レムの『俗物に囲まれた幻視者』なるディック論は卓越していたが、なぜ21世紀の今なおディックが現実に突き刺さるビジョンを持ち続けているいるかについてはまでは、説きおよんではいない。
しかし、その渇きを満たしてくれるフランス哲学者が現れた。というか、そのディック論が翻訳された。これはウレシイ。
著者のダヴィッド・ラブジャードはジル・ドゥルーズの研究で著名なヒトらしいが、
切れ味は鋭いし、そのディックの作品の読み込みには啓発されるものが多すぎる。
例えば、『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』の主人公の名はルネ・デカルトをもじり、リック・デッカードだった。そのテーマはデカルトの動物機械論を射程に入れている、など誰が知っていただろうか?