ランダムなメモランダム

雑草のような雑念と雑考

アウグスティヌスの「時」とヤスデの昔話

 「時とはなにか」についてアウグスティヌスは「問われなければ、知っている」

とした。

 ゲジゲジか、それともヤスデだったかも昔ばなしのなかで、「どのように移動しているか」と問われて「足の動かしかたがわからなくなってしまった」そうだ。

 ここから得られる、統合レベルの教訓はなんだろうか?

「時とはなにか」という問いで、かえって「時が何だか全く理解できなくなり、社会生活に不便をおぼえてしまう」こともあり得るということだ。

 そういう生真面目さが哲学の道に通じるということだ。

 

 聖アウグスティヌスは自身の歩みを振り返るときに、時間の問題に遭遇した。

『告白』の第11巻の十五章にある。

 時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである。

 

DX、アプリ化とAI導入は少子化対策にはなるが、高齢化対策にはならない

 いまどきのDX化は何でもアプリに載せて、スマホなどユーザ起点&負担ですべての処理を自動化させようという発想でビジネス変革を進めているように見受けられる。

 これは、一面、きわめて自然な流れだろう。個人のニーズや情報はその当人に任せ、間には人を介さない。省力化と省人化、いつでもどこでも処理ができる。しかも、コストダウンがついてくる。セキュリティさせしっかり保護すれば、ほぼ満点と誰でもそう思うのだ。

 労働力人口が不足していきている少子化社会には、持って来いのトランスフォーメーションだと誰しもが考えるのはわかる。

 だが、しかし、高齢者社会には不向きなのではないだろうか?

 アプリの使い方がわからない、いや、それどころかスマホの画面の文字も音声もようよう聞き取れない。用語がわからない。そうかといって、頼みのコールセンターはつながらない。パスワードはアプリ毎、サービスごとにメモしておかなくてはならない。

 だいたいセキュリティが厳しいのでパスワードを失念したら、正規の面倒な手続きを踏んで回復するまで、しばしの間何もできない。急ぎの用事ほどそういう事態が発生するのが、マーフィの法則だ。

 当人がどんな有料サービスに加入しているかも、次第にあやふやになる。つまりはサブスクリプション手数料はトラレゾンになる可能性がある。下手すると年金以上にサブスクでマイナスになるかもしれない。請求書が紙で来るわけではないので、第三者にはわからない。最近は、通帳もWeb通帳だから、どう引き落とされているかわかないままになる。

 何とも皮肉な事態ではないだろうか?

井筒俊彦の全容の一端の欠片

 イスラム学者として認知されている井筒俊彦だけれども、その英文業績からは別の側面がみえてくる。慶応大学出版会から出た翻訳を小遣いを工面して4冊ほど入手した。

『東洋哲学の構造』はエラノス会議12回の講演の集成。日本人最多の出席回数だろう。

そして、老子研究と紹介が重きをなす。

...............にしても、自分も買い物自慢するとは「恍惚」の人になったもんだ。

 

 

 

 日本では『コーラン』の翻訳、海外では『老子道徳経』の英訳

 

職能ギルドとして世界で生き残れ、日本人よ。

下の東洋経済の記事を読まれたろうか?

運用まで含めると日本の鉄道技術は世界のいかなる国も追随を許さないと思う。

toyokeizai.net


 とくに、「定時運行率ほぼ100%、停電時も迅速対応」は日本人職能者の存在が不可欠なのだろう。「一所懸命」という職務への忠実さと気質が日本人の特徴だ。

 それゆえ、ユダヤ人のようにグローバルに活躍して、偉大な業績や売り上げを残すみたいな生き方とは異なる「ギルド」になることができるだろう。

 採算を度外視して、万人に奉仕する偉大なる職人気質はかけがえのないものだ。

 

 

 

日本文化の独自性の再検討のひとつ

 日本人論というジャンルがあって、それこそその手の書物だけで汗牛充棟なのだ。

ここでは「文化進化」という視点でさらに追加してみた。

でも、時間ないのでシノプシスだけだ。

 大航海時代というのがあって、16世紀から17世紀にかけて西洋の侵略主義的な商業主義者たちが、現在の主要な大陸と島嶼を貿易ネットワークで結合した。

 室町後期から安土桃山時代にかけて南蛮文化が日本にも持ち込まれて、日本も商業ネットワークに組み込まれたわけだ。石見銀山佐渡金山がその名残だといえる。

 日本が歩んだ道はそのあとが異なる。「鎖国」だ。完全な貿易の停止ではなかったにせよ、民間レベルの交易は事実上閉ざされる。

 近世における独自な「文化進化」が徳川三百年で起きたと考えることに本説は拠って立つ。

 現在のいわゆる「先進国」と比較してみると際立つのは、「中世的」伝統が江戸期の日本では温存されていることが顕著だ。

 ヨーロッパ大陸ではキリスト教が過去の多神教信仰を一掃した。その反動から近世が開始しているが、一神教は健全状態での「文化革命」で資本主義と民主制への運動が起きた。いずれにせよ、中世以前の伝統や社会構造は近代化のなかで消失していく。

 中国大陸は王朝交代のたびに文化破壊が荒れ狂うので、例えば唐代の建造物は残っていない。近世は清王朝のもとでの時代だったが、やはりイエズス会により世界観は塗り替えられた。

 中東はイスラム教が支配的であり、その伝統を維持してはいた。しかし、交易ネットワークに併呑されて、インドともに西洋の商業支配に屈した。

 日本の独自性は中世以前の過去の文化や伝統が維持、温存かつ一部醇化した点にある。江戸時代という「近世」は他の文化圏の近世とは異なるようなのだ。

 その典型例が「神道」という多神教の存在だろう。近世の学問として「国学」というのもちょっと他の先進国の学問と異なるものだ。過去の創世神話を近世的な合理性の解釈で丸ごと信じていこうという試みなのだ。民俗学もその系統に連なると思う。

 伝統と文化切断がなかったのが日本の特殊性だということだ。

銅鐸が神社の鈴になった件

 銅鐸は古語で「さなき」という。藤森栄一の『銅鐸』でも三河地方の「佐鳴湖」まで銅鐸を求めて旅した話しがあった。「さなる」とも言ったらしい。

これが銅鐸を指すと明らかにしたのは江戸時代の国学者だったらしい。

 何のために使われたかと言えば、叩いて鳴らすためだ。銅鐸は空洞なので、叩けば鳴る。さなるという名に相応しい。

 ところで、これが神社の「鈴(すず)」になったのはどんな証拠があるのだろう。

 それが諏訪大社の鉄鐸(さなき)だ。諏訪地方ではその名のままに今に伝わり、神社の鈴となっているのだ。

 

  藤森栄一『銅鐸』からの図版

 

 

 


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 学生社はもうないのだね。