ウクライナ戦争の被害者に心を痛め、千羽鶴を贈ろうとする活動に待ったがかかっている。被災者側には有難迷惑なだけだろうという論拠らしい。
また、ウクライナの人びとが千羽鶴の呪術的意味を理解できないばかりでなく、その置き場所にもそれを捨てることにも支障があるのだそうだ。
もっともな指摘である。
理性的かつ合理的な立場からすれば、反論しようもない。自分も鶴など折れないし、参加もしないだろう。
けれども、やはり、こうした思いを込めた努力とその形象である千羽鶴には、敬意を払うべきだろう。無下に却下するわけにはいかない。極東の偏った奇習であろうとこの行為自体は価値がある。
ヨーロッパの大聖堂は名もない多くの民衆の寄進と活動から築かれたと聞く。日本の奇習である千羽鶴もあえかな「大聖堂」ではないだろうか?
千人針という奇習も日中戦争や太平洋戦争時には銃後の婦人たちの出征者への想いを伝えるものだった。ある戦争体験者によれば、シラミの住処となって厄介千万だったそうだ。でも、贈る行為はせざるを得ない、また、兵士もそれを捨てさるには忍びない。
そういうものなのだろう。
そうです!
永井荷風先生とともに日本の民間の奇習には甘酸っぱい味を感じるのです。
江戸の情緒を求めて、東京の下町をさまよった荷風は民間信仰を目の当たりにして名言を残したわけです。