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雑草のような雑念と雑考

自然科学の起源と現代の状況

 学問はその対象をあらかじめ与えられている。力学は物体の位置と運動に関する学である。生物や政治の運動については扱わない。文学は創作的文章に関する関係の学であるからして、その作者の神経細胞や消化作用は扱わないきまりであろう。
 こうした約束事はギリシア時代、少なくとも学問の始祖というべきアリストテレスまで遡ることができる。
 彼は自然学、気象論、動物部分論とか、政治学、トピカ(論理学)から詩学にいたる学芸のほぼ全域をカバーする講義記録と区分けを残した。
 その際立った体系性のゆえに西洋の中世以降はこの区分けにしたがって学問は考究され、教育されることになる。
 であるから、その区分けがどのような考え方なのかを振り返ることは何がしか現在の自然科学の状況に示唆するものがあろうと思う。

 ここは専門の哲学史家に登場してもらう。はじめに出隆。東大の西洋古典学の大家の指摘から。

かれは、広く人間の知能の所産、あらゆる学問技術を見渡しながら、そうした知能を「見ること=観照・観想・研究・理論」と「行なうこと=行動。行為。実践」と「作ること =制作・生産」の三つに大別し、これに応じて、当時ありえた学問技術を、三つに大別した。
 すなわち、「作る的な術=制作的。生産的な諸技術)のほかに「行なう的な学。哲学=実践学または実践哲学)と「見る的な学・哲学=理論学または理論哲学)とに区別した。

「見ること=観照・観想・研究・理論」のテオーリアは、数学、第一哲学や自然学などがそうだ。これが最良のしかも知者の学とされる。
行なう的な学。哲学=実践学または実践哲学」には政治学倫理学が属し、広い意味での国家学(ポリスの学=ポリティクス)となる。

論理学も彼が礎(いしずえ)を定めたが、これは研究の方法であった。

かれの論理学は、その演繹論理も帰納論理も、最も主として理論的諸学の道具とし予備学科として説かれ、人間の行為や技術に関しては、とくに行為の論理とか技術の論理とかいうようなものはかれには考えられなかった

 京大の古典学の統帥であった田中美知太郎の指摘を引用しよう。
中公版の世界の名著『アリストテレス』の序文によれば、こうだ。

アリストテレスはその後(プラトンのこと)を受けて、直接の先行者である数学派(ピュタゴラス主義者)や論理派を批評するかたちで、むしろ形式の他にも素材をあわせて語らなければならないことを主張した

ということで、こうしたアリストテレスの基礎的な意図からすると、自然科学の政治的歴史的な背景や存在拘束性(社会状況により発見や発展が左右される)を扱う学などはどこにも自分の位置を見出せないものになる。

量子力学の観測理論に人間の意識が持ち出されたことがあるが、これはアリストテレスの路線からの逸脱になる。ひとたび土俵=区分けされたからには、そこから逸脱したテオーリアはルール違反になるのだ。

 しかし、これは科学の歴史でたびたび起きることになる。生物の遺伝が化学の用語(分子)で語られるのはその顕著な例であろう。しかし、その方向はすでに逸脱できないものになっている。遺伝を支配するのは遺伝関与の化学物資であり、太陽系の惑星配置(占星術)や電磁場ではない。原理的には分子遺伝学が支配権を確立しており、そこに対する物理学や心理学、天文学や気象学の関与を主張する理論は、もはや自動的に破却されることになる。
 アイゼンクという心理学者の『占星術』はそうして閑却された。統計的な処理では惑星支配的な性格形成理論を確立できはしなかったようだ。
 しかし、ある種の学問ではこれに類したことが反復的におきる。科学哲学だ。自然科学に対する異議申し立てが科学哲学ではたびたび発生する。