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雑草のような雑念と雑考

フッサールは何を死の床で見たか

 現象学の始祖フッサールは死の床で看護婦に「いま素晴らしいものを見た。書くもののを」といいつつ息絶えた。
 ここで ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のラストセンテンスは多くのことどもを連想してみるのは悪くないだろう。
「語りうるものについては明晰に語りうるし、語りえぬものについては沈黙しなければならない」
 フッサールがその至高ビジョンを語り得なかったというのは残念なことかもしれないが、それは所詮語り得なかったものであり、後世の人間には沈黙となって伝達される。
同様なことが、トマス・アクィナスにも起きた。彼が最期に見たビジョンはこの多作家の筆を止めた。
 そのため『神学大全』(Summa Theologiae)は未完成となって伝わることとなる。
そこにいくと禅は思い切りよく「不立文字」として「直指人心」と主張した。そう言っておきながら禅の経典は汗牛充棟となっている。
 バルザックの『絶対の探求』のエピソードを引いておくのも示唆的だろう。主人公バルタザール・クラースはその絶対的な真理の飽くなき研究の挙句の果てについに目標にたどり着く、だが、彼にはそれを伝える時間が残されていなかったのだ。
 それはさておき、それぞれ人は末期においてその言語的表現の境界に行き着いたところが世界の境界でもあるのだろう。その時点で意識の生成は終了し、世界はフリーズする。