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雑草のような雑念と雑考

海上からの徐福の来た道

 思いつきをダラダラまとめてみたい。
徐福伝説についてだ。
 秦の始皇帝の時代に道士にして稀代の詐欺師にして開拓者、徐福が男女三千人を引き連れ、に、海上に三神山(蓬莱、万丈、えん州)に不老不死の霊薬を求めて去った。時に紀元前219年である。
 日本に渡来したという伝説は、十数カ所ある。鹿児島、佐賀県、愛知県、和歌山県三重県山梨県、神奈川県に散らばるようだ。
 和歌山県は県民自身が思い入れが深いようで、新宮市に徐福の墓があり、捕鯨も農耕も紙も医薬も徐福由来とされる。問題の墓は江戸時代初期に築かれた石碑だが、すでに鎌倉期にはその伝承は確立していたようだ。円覚寺の開祖の仏光国師漢詩があるという。

 いずれの地も黒潮沿いであることは始めに注意しておいて良いだろう。
そして、列島に残る他の伝承同様に、その説話を口承する民がいたというのは確かだろう。
考古学者の森浩一の指摘を振り返ろう。
 上記の「えん州」を種子島とする説があるという。種子島には広田遺跡があり弥生時代のものだが、山字貝札が出土している。山は「仙」の略字ともいう。三国時代の呉とは交流があった。
 男女混成の徐福探検隊はこの地にたどり着いた可能性が高いと森浩一は匂わせている。なぜこの場所かは「宝貝」の交易が秦代以前から盛んだったからだ。えん州=種子島は秦以前から知られていたのだ。

 最後に柳田国男の最晩年の力作『海上の道』で宝貝の交易圏が説かれることを参照しよう。

 いわゆる徐福伝説の伝播と成長とには、少なくとも底に目に見えぬ力があって、暗々裏に日本諸島の開発に寄与していたことは考えられる

 とあり、人の洋上移動にともなう伝承の広がり方を、すなわち黒潮による文化の移動を裏付ける一つの小さな例でしかないとしている。

【参考文献リスト】

熊野まんだら街道 (新潮文庫)

熊野まんだら街道 (新潮文庫)

徐福論―いまを生きる伝説 ―(新典社選書)

徐福論―いまを生きる伝説 ―(新典社選書)