右手の優越というと二つの対称軸での左右の文化論となろう。ここでは三という数字の機能や組織、文化における顕在性を問いたい。三相交流などという送電システムというインフラの技術も含まれてくるので、対象を区切るのは難しい。
物理学での三法則は外そう。
なぜなら、ニュートンの力学の三法則もケプラーの三法則もかなり恣意的だ。自然法則といいつつかなりな任意性を含んでいるのはマッハの力学史なので明らかだろう。見かけのうえでの三でしかない。
残念ながら、熱力学の三法則もそうだ。エントロピーや絶対零度の定義が暗黙知とされ、しかも第ゼロ法則である熱平衡状態がある、も無視されがちだからだ。
そうなると自然科学では三法則などというのは見当たらないのではないか?
素粒子論などは標準モデルが理論的独占状態だが、対称性(群論)のごった煮状態だと感じる。この状態はなんとなく無機化学に類似している。素粒子の反応式は化学反応そっくりだし。
自然科学の法則は無視しておこう。ここは社会文化の次元での「三」の卓越性に注目して進める。
老子からだ。『道徳経』から開始しよう。
道は一を生ず。一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
三が万物のもとになるという雄大な飛躍は、なぜかというと陰陽二元論では天地、陰陽、男女の二項対立が事物の生成源だとしている。三は多数性の象徴だと解釈できよう。