その昔、柳田国男翁の晩年に文化人類学サイドから日本民俗学の学問としての正当性に批判があった。柳田翁は門下からの反批判がないとみなし、成城学園にあった民俗学研究所を閉鎖した(と言われている)
皮肉にもその先鋭のひとりが『桃太郎の母』の石田英一郎だったり、岡正雄という異人概念を折口信夫に触発されて文化人類学に持ち込んだ学者だったりする。
1960年頃は、まさに新興の文化人類学(民族学)の勢いはとどまるところを知らない。方法論や実績の蓄積において比較にもならないし、大学というアカデミックな場は文化人類学者によって専有されたし、講座が設けられてゆく時代だった。
「柳田に弟子なし」とか、「民俗学に方法論なし」、「一国民俗学」などと痛い批判が重ねられていったが、民俗学者側はそれを覆す主張はないままに時は流れた(と素人の自分は思う)
しかしながら、半世紀以上たったみると、一般市民からすれば、知の巨人レヴィ・ストロースと民俗学の創始者柳田国男とどちらが、知名度高いかといえば、柳田国男に軍配があがる。柳田国男批判を行っていた山口昌男亡き後、その後継者はいない(精神的近縁の坪内祐三も2020年に故人になった。彼は不思議にも柳田国男の血縁者だった)
文化人類学は対象喪失か、もしくは普遍理論化が困難という局面にあるようだ。本家本元のアメリカの文化人類学は21世紀になって我が国に響くような情報発信パワーを顕著に低下させている。
そうした文化人類学への状況判断には異論もあろう。ただの一市民の感触でしかないのは確かだ。それに対して、「一般市民への浸透力」に関する判断は正しく評価できるだろう。日本民俗学の勝ち残りだ。
かんたんな例で示そう。教養の基盤、岩波文庫の目録の販売状態(品切れ除く)を紐解く。
柳田 8種 南方熊楠 1種 山川菊栄 1種 宮本常一 2冊 +リューティ『ヨーロッパの昔話』
◇文化人類学は4タイトル
石田英一郎 1種、ホカート『王権』、アウエハント『鯰絵』、モース『贈与論』
ちなみに、10年前も同様だった。
◇民俗学 10タイトル 柳田と宮本常一
◇文化人類学 5タイトル 岡正雄と石田英一郎及び フレイザーとモーガン
このデータは民俗学のほうが、どれだけ身近であり、ロングセラーとなり、そして、市民に親しいかをものがっているのではないか。