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雑草のような雑念と雑考

混沌とカオス

混沌

 まずは、東アジアの「混沌」から。

中国古代の地理書である『山海経』の一節である「西山教」にそれが出てくる。

天山といい、金・玉多く青雄黄あり。英水ながれて西南流し、湯谷に注ぐ。
神がいる、その状は黄色い嚢の如く、赤いことは丹の火のよう、六つの足、四つの翼、こんとんとして面も目もないが、この神は歌舞にくわしい。まことこれぞ帝・江である

 実は、この神が「莊子 内編」の「混沌、七竅に死す」のモデルだ。

 諸星轍次の解説によるとその経緯はこうなる。

南の海に僚という神様がおりました。北の海に忽という神様がおりました。そしてこの僚と忽とが、偶然ある機会に南北の中央で、混沌という神様に出会ったのであります。そのときこの揮沌という神様が、まことに鄭重に僚と忽とを待遇してくれました。
その好意に感激いたしまして、傑と忽とが相談いたしまして、人聞にはみな七つの穴があるのに、この者にだけないのは可哀そうだ。ついては、われわれがひとつ穴を掘ってやろうではないか。
そうしたらぱ混沌も見ることができ、聞くこともでき、食らうこともでき、呼吸することもできるであろうと。相談がまとまりましたから、彼らは毎日一つずつ穴を掘っていったのであります。かくのごとくにして、七日にして七つの穴が全部あいてしまったのでありますが、そのときに混沌の神は死んでしまったというのであります。

 

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 目も鼻も口もないので同情されて親切の押し売りされても断れなかったのだろう。
混沌は目鼻なくても二人の神々を歌と踊りでもてなしたのであろうか?

 この混沌の図像は『山海経』でも特異である。他の図像は怪異なものばかりだが、目鼻口がないふっくらとした姿はむしろ親しみやすい。

 もともとは混沌は象なのではあるまいか?

 古代の中国には「象」が生息していたという。しかし、歴史時代には滅び去り、「想像」することしかできなかったという。想像の像は象からきたという。

 しかしながら、七竅が無いという始原の状態はギリシアの「カオス」とは異なる。

老子』では「混沌」という語はない。「混成」と上篇で表現されている。

福永光司の訳によれば、混沌に置き換えられている。

 混沌として一つになったエトヴァスが天地開闢以前から存在していた

 それは、ひっそりとして超えなく、ぼにゃりとして何ものにも依存せず、

 何ものにも変えられず、万象にあまねく現れてやむときがない

 列氏先生はどう説いているか?

『列氏』天瑞編にいう。

太初の「気」と太始の「形」と太素の「質」とが十分にそなわっていながら、潭然一体となって、まだ個〔物〕を形成していない未分化の状態を「渾崙」というのである。渾崙はいっさいの万物が混沌としてぴったりと一つになっている状態を指していう。

「こんろん」に置き換わっているようだ。ただし、訳者の小林勝人によれば莊子と同じ言葉だとする。

 

カオス

 紛らわしいことにギリシア語由来のChaos=カオスも混沌と訳される。現代日本語では混沌はカオスと同義だから、問題はないといえばそのとおりだ。しかしながら老荘の思想に共感する立場からは困ったもんだということになる。

 ヘシオドスの『神統記』に出てくる。山海経に負けず劣らず古いのだから、さすがだ。こちは宇宙創生期に重要な役割を果たした後、神話界からは姿を消すのが大きな違いだ。

 ヘシオドスの冒頭部を廣川洋一の訳文を引用しよう。

 まず原初にカオスが生じた さてつぎに
胸幅広い大地を戴くオリュンポスの頂きに
宮居する八百万の神々の常久に揺ぎない御座なる大地 と
路広の大地の奥底にある曖々たるタルタロス
さらに不死の神々のうちでも並びなく美しいエロスが生じたも
うた。
カオスから 幽冥と暗い夜が生じた
つぎに夜から 澄明と昼日が生じた

 とまあ、このように古代の農民詩人は歌っている。

 カオスは世界の種であり母体であったかのようだ。ここまでは古代中国と状況は似ている。始原の存在ではあるが夜と闇を内側に持っていることで、無秩序のシンボルとされるようになったのだろう。

 余談だが、西洋では気体Gasという専門用語にカオスは流れ込む。ファン・ヘルモントの命名なのだが、この化学者の母国語であるフランドル語のchaosから生み出された

 コスモスとカオスという対比が古代の思想家は評価するようになるわけだ。こうなると神秘性が失われてくる。これが末代のグノーシス主義になると地の底でよどむ悪の似姿になりはてる。

 ところで昭和の一世代前の多言語自在な文化人、河野与一によれば、カオスの語源は「あくび」の擬音語であるという説がある。ギリシア語でkhascoはあくびをするという。khaという音はカハーと口を開けたている状態なのだ。

 ヘシオドスのことばも「原初に欠伸いでたり」となる。

 

 そうなると老荘の混沌と高みにおいて等しくなってくるのであるはあるまいか? 世界の始まりの欠伸があったというの老子も頷きそうだ。

 

 

 

 

 残念ながら、岩波文庫版には「あくび」は出ていない。この古い版の本の「アリストテレスの欠伸論」にある。冒頭におかれていることからすると多言語のポリマスであった河野与一の自信作なのかもしれない。