ランダムなメモランダム

雑草のような雑念と雑考

超地上的なもの

 戦争の後遺症から入る。太平洋戦争の激戦の地、硫黄島日本兵の生き残りの方々は、自分からすれば英雄に思える。寡兵を以て強大な連合軍を迎え撃ち、彼らの進撃を一か月以上にわたり足止めさせた。

 彼らの証言は、しかし、斬鬼の念に満ちたものばかりだ。戦友を見送り、自分だけが生き残ってしまった。

 これは一種のPTSDであろうと思う。

 後期高齢者にとって、これは他人事ではないのでないか?

 自分とともに生きた人々の多くを見送り、一人自分だけが取り残される。微小なPTSDが積み重なってゆくと見なせるのではないか。

 しょせん、この世は憂き世だという慨嘆の正体はそんなものではないだろうか。

 自分の未来には過ぎ去った記憶の再生しかない、そんな光景しか見えない状態に陥る可能性は高いのだろう。

 これを回避するのに3つの道があるだろう。

宗教の世界、美の世界、科学の世界だ。

 宗教のことはそれほど多くを語る必要はあるまい。この世よりも彼岸を、現世より後生に思いをいたすのが、残されたときの過ごし方になるのだから。

 美の世界は、少々説明がいるかもしれない。

 個人的な経験を語ろう。四国の金毘羅さんに昔ながらの芝居小屋がある。奉納歌舞伎がここで演じられてきた。そのドキュメンタリ映像で、はからずも歌舞伎の一瞬の所作に永遠を感じたことがある。

www.konpirakabuki.jp

『地獄の季節』のランボーのごとく、別次元の世界が訪れたのだ。

 何を見つけた。永遠を!

 海に溶け込む太陽を

 そんな瞬間的な情緒だった。

 演劇に無関心であり、ましてや伝統芸能には皆目無知であった自分にそんな感受性があったことも意外だったが、「超地上的なもの」が現前したことはもっと驚きであった。

 あとで哲学者の和辻哲郎が同様な感慨を記しているを知ることになる。

そして、自然科学の世界、これも文化や時代に束縛されない「永遠性」を備えている。

例えば、解析力学の均整のとれた対称性と数式表現が、すべての物理的世界をつらぬいて真であることは、「美は真なり、真は美なり」とキーツのように言いたくもなろう。

 

 これらに通底するのは超地上的なものであることだ。閉じていく事象の地平とは異なる次元を開拓することが、憂き世に染まらない精神の方策であるのだろう。