ランダムなメモランダム

雑草のような雑念と雑考

世界の大都市のゴッサムシティ化

 トロント、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、シアトル、ロンドン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ホノルル。これらは、ここ数年で路上生活者の急増が報じられた都市の一部だ。

原因はわかっている。強烈なインフレーションと都市部の不動産価格の急伸だ。

ホノルルを除き、いずれも大都会だ。景気好調あるいは意味は違うがGDPが増大しているとウハウハの政治家と金持ちの国に属していることだろう。

 また、殺人などの犯罪事件で話題になるのはアメリカの都会が多いのは、周知の事実だろう。

 まるでバットマンの生まれた架空の町「ゴッサムシティ」のようなありさまではないか。

 10年ほど前に亡くなったジェイン・ジェイコブスはなんというだろう。彼女は大都市における歩道とそのコミュニティの重要さを強調した思想家だ。彼女の主張は多大な影響を与えたというのだが、このアメリカの現状を見たら、切歯扼腕するだろう。

1960年代にNYの都市開発計画での社会論争&闘争のイデオロギーを提供者した人物でもある。自動車を優先する都市開発へNoを突き付けたのは先見の明があった。

だが、彼女の最後の著作は『壊れゆくアメリカ』だったのは、象徴的だ。

 

 

 

 

木村敏『時間と自己』

 ハイデッガー道元を合わせ読み込みして、時間の内在的な特質に迫る。木村敏のような鋭敏でボーダーレスな知性ならではの思考と手腕だろう。

 木村によればアリストテレス形而上学の時間論はハイデッガー経由で解釈学的に読解するのが、より始原的か。自然科学の「時間」は幾何学化され記号化されて、さらに計数化されて無味無臭な抽象概念になっているが故に、至る所で役に立つ。「もの」化された極限としての「時間」論ならば、自然科学の独壇場だろう。

 でも、それはクオリアを欠く。つまり「こと」にはなりえない。私がいまここにあること。これが内在的な時の在り方だろう。やはり原初のことばで質感を帯びた「とき」を語り尽くす方が、「時とは何か」という問いには寄り添っているのだろう。

 木村敏は専門の哲学者ではないから、かえって時間の不分明に分かりやすい道しるべを与えてくれるのかな。

 惜しい人物を亡くしたものだ。

 

 

 

ディックのヴィジョンを読み解く

 ディックといえばSF作家のフィリップ・キンドレド・ディックだ。

彼の作品はいまだに光芒を放ち、一部の読者を魅了しつづけている。

ひと頃の英米SFの三大巨匠、ハインラインアシモフ、クラークはディックに比べるとアクチュアリティに乏しいと感じる読者がいて、自分もその一人だ。

 映画の原作としても、

ブレードランナー(1982年)
トータル・リコール(1990年)
バルジョーでいこう!(1992年)
スクリーマーズ(1995年)
クローン(2001年)
マイノリティ・リポート(2002年)
ペイチェック 消された記憶(2003年)
スキャナー・ダークリー(2006年)
NEXT -ネクスト-(2007年)
アジャストメント(2011年)
トータル・リコール(2012年)

 とこれだけある。あのヒューゴ賞受賞作でもある奇妙なパラレルワールドの『高い城の男』でさえ、Amazonオリジナルドラマになった。

 しかし、彼はそれ以上にアメリカの21世紀の現実を予知していたと思う。

 陰謀論がまかり通るような現実と幻想が入れ混じるメディアと言論、オピオイドや鎮痛剤などのドラッグ漬けのアメリカンスピリッツ、そして社会的&政治的なエントロピーが荒れ狂うアメリカ社会を、1982年に死去したこの作家は如実に物語り化したといっても言い過ぎではないのでないか。

半世紀前の預言者と言えるのではないか?

そして、苦悩する預言者としてのディックの論評はなかったのではないかなあ。

 でも、その理由を余すところなく立論した批評というものにはめぐり逢うことはなかった。確かにスタニスラフ・レムの『俗物に囲まれた幻視者』なるディック論は卓越していたが、なぜ21世紀の今なおディックが現実に突き刺さるビジョンを持ち続けているいるかについてはまでは、説きおよんではいない。

 しかし、その渇きを満たしてくれるフランス哲学者が現れた。というか、そのディック論が翻訳された。これはウレシイ。

 著者のダヴィッド・ラブジャードはジル・ドゥルーズの研究で著名なヒトらしいが、

切れ味は鋭いし、そのディックの作品の読み込みには啓発されるものが多すぎる。

 例えば、『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』の主人公の名はルネ・デカルトをもじり、リック・デッカードだった。そのテーマはデカルトの動物機械論を射程に入れている、など誰が知っていただろうか?

 

 

日本のSF初期の関係者の死に至る病のリサーチ

 日本SFの関係者の死にざまを調べてみた。著名な作家、翻訳者、編集者が対象であり、WIKIPEDIAが情報源であります。

 広瀬正 47歳 心臓発作

 半村良 68歳 肺炎

 光瀬龍 71歳 食道がん

 福島正実 47歳 不明

 横田順彌 73歳 心不全

 平井和正 76歳 心不全

 星新一 71歳 口腔がんから間質性肺炎

 野田昌宏 74歳 肺炎

 柴野拓美 83歳 肺炎

 手塚治虫 60歳 胃がん

 小松左京 80歳 肺炎

    今日泊亜蘭 97歳 肺がん

 矢野徹 81歳 大腸がん

 浅倉久志 80歳 心不全

 山野浩一 77歳 食道がん

 栗本薫 56歳 膵臓がん

 眉村卓 83歳 肺炎

 石川喬司 92歳 肺炎

 網羅的ではさらさらないが、一般的な傾向としては戦後を生きたホワイトカラー男性としては寿命は平均以下のような気がする。死因となる病気は、心臓系と肺炎とがんが三大要素といえる。だが、脳梗塞などは表面に出ていないが予め経過した病である可能性がある。典型的な長時間座りぱなっしの職業の特徴と言えなくもない。

 また、現存のSF関係者である伊藤典夫山本弘脳梗塞大森望は心疾患を患ったということを参考にしてもいいだろう。

 がんによる死亡は少ないが闘病の結果として肺炎というのはこのリストには出てこないので多寡を論じることはできない。食道がんや口腔がんは喫煙が原因と推定される。

 かねてより彼らのアウトプットに憧れ親しんできた者として、同様な病気が予期されなくもないということで、また、SFという人外魔境に触れた人たちがどのような末期を辿るかという興味の一環として、まとめておきます。

 

星新一最相葉月の伝記が出ています。

 

 変わり種でいうと、今日泊亜蘭の評伝が出てますね。

 

 

 

 やはり翻訳者としてなじみ深いのは浅倉久志でしょうか。

 

明治時代を生きた巨人たち

 バルザックの「人間喜劇」シリーズに描かれた主人公たちは、巨怪な性格の持ち主が多い。『従兄ポンス』の老友を気遣う末期の床にある音楽家シルバン・ポンス、『知られざる傑作』の天才画家フレンホーフェル、『ルイ・ランベール』の哲学者ルイ・ランベールなどである。

 彼らの強烈な情念と行動は破格であるといっていい。それが小説を部類の面白さに仕立てている。

 こうした人物像は「フランス革命」を生きた人々がモデルであるとされる。

 激動期であり、かつ人間性の解放の時代は規格外れな大きな人間を輩出するものらしい。

 それに相当するのが明治時代だろう。『らんまん』のモデル牧野富太郎もその一人だろうし、内村鑑三森鴎外露伴大拙などもちろんその範疇にあるだろう。

 バルザックの主人公との比較で言えば『絶対の探求』の主人公バラタザール・クラウスは、わが南方熊楠に比定されるのではないだろうか?

 すべてを投げうって究極の真理の探究に打ち込むバラタザールの生きざまは、世俗の栄誉や富などを軽視して、真言密教的生物世界の追求に全精力を捧げた稀有の博物学者であった南方翁のそれであったと思う。

 もう一つ、内村鑑三南方熊楠らに共通している特徴は強烈なナショナリズムだ。

 クリスチャン内村鑑三の「二つのJ」を思い出してみたまえ。同じ明治人であるマルクス主義者であった河上肇の留学記にも傲慢な欧米への反感とJapanへの思い入れが書かれているくらいだ。キリスト教徒とマルクス主義者の愛国心

 南方熊楠大英博物館の英人部長のまえで孫文にイギリス人たちをアジアから追い出すのが夢であると発言して、この革命家を狼狽させたという。

 国威発揚、即右翼というなかれ。明治人たちは欧米列強に苦しむアジア人たちと共鳴する精神性をもっていた。

 その精神性を思い起こすメロディーとして、『Stand Alone』は聴けるのではないか?

 司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』のOPは、喪われて久しい人間性開花と国威発揚の高揚感を響かせている。

 

 


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登塔者シメオンと昭和の煙突男

 東ローマ帝国にあらわれたキリスト教の聖者というべき登塔者シメオンはギネスブック認定されたお方である。

ja.wikipedia.org

 

 どんな生活をしていたかについては記録があるのではあるが、40年間も塔のうえで苦行したという。

現代日本に住む日本人にとっては想像を超えるものがある。

 それに対比されるのは川崎市の工場の煙突男である。6日間の滞在時間を誇る。

 お名前も田辺潔さんとわかっているし、何と言っても昭和のヒトなのだ。写真も残る。 田辺氏の企図は実現し、工場の労働争議は労働者側の要求を入れることに決着した。残念なことに警察署による拷問死が2年後の田辺氏を待ち受けていた(あの時代にありがちな暗い出来事だ)

ja.wikipedia.org

 

 シメオンと田辺潔は時代も背景も動機もまったく異なるが、高い目立つ場所で自分の行状を晒すことで耳目を集めた点は共通だろう。なによりもその愛他精神は同じでなかろうか?

 なお、下記の記事によれば2006年のアレッポ近郊の爆撃によってシメオンの柱は砕かれたという。なんともはやバチあたりな行為ではある。

www.anglicancathedral.tokyo

からかい上手の高木さん 自分流

 うちのかみさん、ハイソだから、パリに行った友人の数は吉野ケ里遺跡に行った友人の数よりはるかに上回るに違いない。

 吉野ケ里はゼロかもしれない!

 北茨城市にいったことのあるセレブの友人はゼロかもしれない。

ルーブル美術館に行った友達の数は寒川神社に行ったことのある友人の数の∞かもしれない!