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雑草のような雑念と雑考

王陵と有人ロケット

 王陵は古代の権力者の墳墓だ。そして、人が乗り込んだ宇宙ロケットは現代のテクノロジーの粋を集めた乗り物だ。
 この両者の対比はなかなか示唆的だ。
王陵は「死者」が「地下世界」への「降下」する一方向的な設備だ。ロケットは「生者」が「天上界」へ「上昇」し、再び地表に降り立つ双方向性の設備であろう。一方向的な設備だとしたが、それはしばしば考古学者や盗掘者(どれほどの違いがあるのだろうか?)により地上に引き戻される宿命にある。ラムセス2世やナポレオンのように。
 両者とも、その時代の世界観と人工物の最先端が反映されている。石棺とカプセルにそれぞれ権力者と宇宙飛行士が身体を丸めて胎児のように収まる。
 この世界観というのがクセモノだと思う。王陵はあの世に送り出すための信仰や信念に基いている。そのための彼岸での充実した生を保証するための儀礼が行われた。
 有人宇宙船も「天界」での生活を保証するための「儀礼」というかテクノロジーと費用が捧げられている。
王陵の建造者も宇宙船のエンジニアもどちらも時代の先端技術の担い手であろう。
 両者ともパワーの誇示と「再生」への信念は共通である

 宇宙船は何かスペルマに似ているし、古墳の玄道と石室は子宮のアナロジーに思える。片や放出であり、片や沈潜である。そこは逆方向に似ているといえなくもない。
 宇宙船の生活空間は王陵の玄室に似て、狭く最低限の行動しか許されない。それは宇宙飛行士が胎児どうようの保護を必要とすることにも関係する。石棺はもちろん死者という再生を待つ胎児を収めるものだ。

 墳墓には彼岸の壁画が描かれ、その中には『エジプトの死者の書』のごとく死後の世界のガイドもあれば、魂を導く呪文もある。その対比物としては、ロケットの操作パネルには他界(地表)からのシグナルが送り届けられる。これも他界を誘導するために必要な呪文とみなせよう。
 なによりも、両者ともに非生産的なエネルギーの蕩尽として立ち現れる。これぞ、バタイユの蕩尽だ。
過剰なエネルギーと資材を地下や天界に投擲することが力の証でもある。
 その目的は文明の不死性を表現することにあるのだと自分は考える。だが、古代の権力者のメッセージは現代人にその精神と文化的遺産を伝えた。2000年後に有人宇宙ロケットは、何も伝達するほどの遺産を残していない可能性が高い。


 この書で、考古学者辰巳和弘は古代人の信仰世界に意欲的に分け入る。タイトルは自分の問題意識と通時的である。古墳や洞窟葬にみられる葬送観念に通底するものを魂を運ぶ船に見立てる。そして船は宇宙船の等価物であるし、科学技術の信念はそれほど他界信仰と隔たりはないのだ。

他界へ翔(かけ)る船―「黄泉の国」の考古学

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