ロシア革命の英雄、レーニンは学生の頃は、文字どおり人類の恩人の一人であったこともある。
その最期は、じつに苦渋と苦悩に満ちたものだった。とにかく、スターリンの増長が病床のレーニンには大きな不安を与えたのだ。その予想は、レーニン死後にその通りになるのだが、それは別の大きな歴史的な悲劇、革命に付きまとう陰惨な末路のシナリオだ。
1918年の革命成功後、わずか3年目の1921年12月にレーニンは不調に陥る。1922年1-3月には政局運営にタッチできなくなる。第11回党大会にも参加できない。
4月にはファニア・カプランにかつて撃ち込まれた銃弾を取り除く手術を受けた。
5月には脳梗塞を起こし会話能力を喪う。
6月に小康状態。ソ連邦結成に向けて運動を開始する。しばらくはスターリンやカーメネフ、トロツキーと協議しつつ、政局運営を行う。
11月にはモスクワ・ソヴィエト会議で最後の演説。
12月に二度目の危険な発作。病床からの書簡での指示と協議が残された仕事になる。
12月22日スターリンはレーニンの妻、クループスカヤに無礼な態度をとる
その夜、レーニンは発作を起こし、半身不随となる。
23日レーニンは「遺書」を口述する
そして、1923年だ。1月早々にレーニンは遺書に「スターリンの降格」を追加する。
3月6日レーニンはクループスカヤの件でスターリンに謝罪を要求する手紙を書く
カーメネフはレーニンがスターリンを政治的に粉砕する意図があることをクループスカヤから聞かされる。
3月10日 レーニン最後の発作。会話能力なくなり、政治活動に終止符が打たれる。
年代記風にたどれば、こんな事件の推移になろう。
スターリンの権力欲と暴力性の事実をレーニンは、今際のときに知る。そして、限られた手段でスターリンの台頭を阻止しようと活動するが、おそらく彼の身体機能と知的機能には、その目標を達成するためのパワーを欠いていた。
周囲の人間や同志であった革命家たちもレーニンのメッセージは届かなかった。病人の精神的不安と無力というように周囲からは理解されたのであろう。それでもレーニンはスターリン治下のソ連がどのような運命をたどるかの予感、正しかった予感を持っており、その判断力は翳ることはなかったのだ。