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雑草のような雑念と雑考

倭国人形論 書き集め

 『文化人類学事典』561ページ「人形」より

 日本においても人形は多様な発達の仕方をしている。平安時代には「ひとがた」
「くさひとがた」「かたしろ」「あまがつ」「ひいな(雛)」「偶人」「土偶人」「木偶人」「傀儡」などと呼ばれ、その名の通り材料も様々であった。人形を「にんぎょう」と呼ぶのは平安時代以降である。

さらに、その文化の背景である世界観と人形の遣い方は結びつくとしている。

 人形とはポジティブであれ、ネガティブであれ、ある力が入る人の形をした容れ物である。この力の出入によって様々な役割を演じる。この力の顕れ方は、神や霊、祖先、気、病、豊穣力などさまざまあり、どのように操られているかのあおいう考えはその社会のコスモロジーと深く結びついている。

 中山太郎日本巫女史』の「第七章 精神文化における巫女の職務」より要約。

我が国には古く固有の木偶(でぐ)の遣い方があった筈である。
肥前国風土記」に「久都毘古(くつひこ)」という名のあること。
 人間が神を発見したとき、その神を自分たちに似せて作ったのが人形の始めである。
 信濃巫女は信濃国小県郡禰津村禰津東町を根拠として、明治維新まであった。48軒の親方宿がある。諸方に旅かせぎしていた。
「外法箱」なるものを背負う。その中には一対の人形を入れる

 宇佐の八幡神社の系統に属する各地の八幡社に古く伝えた「細男(せいのお)」なるものも、伝説によると、磯良神の古態を学んだものといわれている

 細男(せいのお):八幡系統の神社の祭礼などで、行列の先頭に立つ人形。

 巫女が人形を操るというのは現代の「人形劇」に及んでいるのかもしれない。

その他の文書
1)守貞『近世風俗志1』 331ページ 首かけ芝居について
2)『役者論語』(岩波文庫
3)世阿弥『二曲三体人形図』


※付帯情報
神奈川県厚木では最近まで人形流しを少女たちが行っていた。その厚木に人形まわし芝居がある。

折口信夫『偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道』より

相州敦木――今の厚木――では、三月三日に、少女達が古い雛を河原に持ち出して、白酒で離杯を汲みかはし、別れを惜しみ、泣く様なぞをして、二体づゝさんだはらにのせて、河に流す風習が、江戸時代まであつた。
更に上総の東金では、今でも、此日を野遊びの日と言うて、少女達は岡に登り、川に向つて「来年もまたござらつしやれ、おなごり惜しや/\」と繰り返す。