プラトンのとある対話編の中で、ソクラテスは「快」の例として疥癬などのような皮膚病で痒い箇所を掻くのをあげている。
サブスクリプション(以下、サブスク)は痒い所に手が届く快適なサービスであることは間違いない。プラトンがほのめかしているように「痒み」という消費の欲動を解消する「掻く」というささやかな行為の反復がサブスクの一つの側面であることは確かだろう。
それも生活が順調であれば、ささやかな愉悦であるのだ。世のなか、そう上手くいっているのが永続するわけでもない。
痒みがやがて生活や生活の質を蝕みだすこともあろう。三木清や戸川潤の末期のように。
共産主義関係者をかくまい、彼自身もそのシンパと見なされて哲学者三木清は長野県の監獄に収攬された。戦後ほどなく獄死する。戸川潤も似たような末期を迎える。
想像するには、衰弱した体に多くの肥え太ったシラミが巣食っていたことであろう。
多くの人びとにとってサブスクはささやかな消費である。
だが、自分もそうだったが迂闊にも知らないうちに契約していたり、契約しているのことを忘れたりするこのは多い。自己責任なのだから文句の言いようもない。
それでも風刺をこめて、サブスクはシラミのような存在であると指摘をしておいても誰も痛くも痒くもないだろう。
とりわけ、困りのものなのは高齢化社会で身寄りのない老人のサブスクまみれだ。
誰が彼らの財布を心配してくれるのだろう?
そう、誰もいないのだ。