フロイトが詳細論評したおかげで、現代でも読み継がれている変わり種小説。それがドイツ人イエンゼンの1903年の作品『グラディーバ』だ。
若い夢想家の考古学者ノルベルト・ハーノルトの異常なまでの幻想と理想が、幼なじみのツォーエ・ベルトガングによって現実化するとともに迷夢から覚める。なんと自宅の前に通りを隔てて住んでいながら、ポンペイで偶然、再会することで現実の人生に戻る。
そういうロマンスである。ベルトガングはドイツ語で歩みゆく女性を意味していた。
起きている症状は古代文明の少女のレリーフ(浮彫)への度を越した憧憬だ。
たしかに、このレリーフは見事な芸術だ。最近のフィギュアとの共通点もある。三次元ではなくリアルでもなく三次元でもなく、生きてもいない模像だ。
でも、生きていない静的な模像であることで幻想を投影できる。
このリリーフの依頼主である親族(両親だろう)も彫刻家も亡き少女の息吹を大理石の吹き込むことに成功している。それが20世紀の現代人にかなわぬ想いを抱かせるのも不思議ではないはずだが、こんな症状が現れたのも時代の精神というべきか。
極東の島国でも2次元異性への偏愛が多発している。その先行事例と考えるべきではないだろうか。
以前も似たようなブログを書いたけれど
日本でも数種類の邦訳がある。いずれもフロイトの論評との取り合わせ。
イエンゼンの小説と正反対の雰囲気のピアノ曲だ。
そうであるけれど、何ゆえか静謐に歩む女性の姿が浮かぶ。