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雑草のような雑念と雑考

ヒッグス粒子の発見で思うこと

 CERNの発表『ヒッグス粒子の発見』は真実なのだろう。99%以上の確率だとまでしているのだ。これで「質量の謎」は解明できたことになろう。
素粒子の探求に一区切りがついたわけだ。

 ここで自分のツマシイ理解と疑念をまとめておくのも悪くはあるまい。
まず、ハイゼンベルクから。
 彼は「現代の物理学はデモクリトスの原子論より、プラトンの多面体による描像のほうに近い」とした。かつて廣松渉は『科学の危機と認識論』なる壮大な問題提起の書で、これはオカシイと指摘した。場の量子論とか量子力学から言えば、廣松の指摘はいいかもしれない。
 ハイゼンベルクはアイソスピンを考えだした素粒子論のパイオニアだということは廣松の考えの及ばぬところだった。
 陽子と中性子をある対称性で語る。その対称性の指標がアイソスピンだ。この整数が−1と1となるだけで、陽子と中性子は相互に転化すると見なすのだ。この自然数の導入は大成功だった。ストレンジネス、カラー、フレーバーと素粒子の相互転化を語る上で不可欠な自然数と対称性が生まれ、それなしでは素粒子を観測も理解もできないこととなったのだ。
 電荷やスピンがヒントになったのだ。eという単位電荷の整数倍しか観測できない。
スピンも1/2の整数倍しかない。両方とも保存則に従う。
 アイソスピンも保存される。カラーやストレンジネスもそうだ。保存則がウラにあるに違いない。ここで第一の疑念が生じる。電荷やスピンと異なり、アイソスピンやストレンジネスは見かけ上の保存でしかない。
 これらは対称性の指標だから、それは保存則の現れであるに相違ない!と想定しての理論構築なのだと思う。
 そして、誰もそれを疑わない。疑う余地がないのだから。
これはポパーの反証理論に反しているのではないか? 対称性を絶対として極微の世界で妄想的な保存則を投映しているように感じるのだ。

 アメリカの言語分析哲学者のディヴィッドソンの「真理の対応説」をここで参考人として引っ張り出そう。
 真理とは信念が実在に一致することだ。科学的真理もそうだろう。ところが、素粒子論における「信念」はヒトの数理的なシンメトリーという理論構築物だ。素粒子がそれにしたがうかどうかは、誰にも検証しようながない。対称性という色眼鏡をかけずに素粒子を観測することが、できないからだ。
 これをくだらない懐疑論と思うヒトも多かろう。だが、電荷やスピンと違い、ストレンジネスを見ることはない。日常の相応物がないからだ。