大乗仏教の「論」のうち、5世紀に著された古くて深い味わいの著作物である「大乗起信論」について、自分の読みを書き込んでおこう。
起信論では悟りの状態を心真如という。その真逆の状態を心消滅という。心真如は透き通って純一にしてケガレのない状態。唯一佛の心である。佛は宇宙に一つしかない。
しかもなお、多数の佛であっても分け隔てない純一性によりて、一つの状態である。
それに対して、心消滅の状態は多数の妄念が対応する。多数の妄念とは意識の多様性であり、ことばの多数性であり、そっくりそのまま欲望の多形性である。
心消滅とはその多数性において衆生心なのだ。妄念の生み出す複雑で多数な心の状態でもある。
ところが、心真如となるためにはその妄念の状態を経由しないとなれない。心消滅が直接的な媒介となって、衆生心を真如に変成せしめる。コトバなり欲望なりが蠢く状態をそのまま受容することでもある。
アーラヤ識はそのための触媒機能を司る。妄念の多数性多様性多面性を咀嚼して発展的に解消するためにアーラヤ識は大車輪で働くのだ。衆生心を成り立たしめるアーラヤ識が妄念を通じて本覚をもたらす。
「アーラヤ不思議!」衆生心はそっくりそのまま真如となる。
心真如は即、心消滅である。また、心消滅は即心真如である。
白隠の座禅和讃にいう。
佛になる特性たる如来蔵は衆生心の内奥にある。アーラヤ識は一方で妄念の像で真如を隠蔽するが、他方で如来蔵へと導く先導者となる。
本覚に至る道筋を起信論は概説している。妄念を突き破り本覚という心真如の状態に遷移するステップ論だ。修行論であり、それを逆にたどることはそっくりそのまま「個我」が生まれて妄念の世界に「一人立ち」するまでの「発達」をまとめている。
妄念を他の個我と競うこと。それが社会人であるために必要な「教養」になる。
社会人というより釈迦人を目指すことが本筋なのだが、それを完全に否定しているのが近代社会である。
白隠は言う。
況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
自性には本体は無い。妄念の渦をそのまま個我としているだけであると。その本性を見極めれば、そのまま「当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり」の境地に落ち着く。