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雑草のような雑念と雑考

日本列島の東西、朝鮮半島の南北

 日本列島の史的な現象として、東西の対立抗争はかなり顕著だろう。
初めてそれが出来するのは、壬申の乱と言えなくもない。大友皇子大海人皇子皇位継承をめぐるは争いは、西の大友皇子と東の大海人皇子の戦闘となる。関ヶ原近辺での戦闘も初めて起きたようだ。大海人皇子の勝利、つまり東軍の勝利だ。
 しかし、これは近畿圏の旧の豪族と中部の新興豪族との権力争いであった。
 次に明確な東西抗争は、源平の合戦だ。旧勢力の代表としての平家と新興武家勢力の源氏との比較的長期な戦闘だった。これは東軍の勝利となる。日本列島を二分した戦いであった。
 建武の中興は西側勢力の挽回であったといえる。これは東日本の武力が分裂したことによる勝利だったが、東日本の足利氏により途中から乗っ取りされる。
 応仁の乱も東西分裂の戦いであった。それ以降、戦国の世となり国内は四分五裂となる。
織田・豊臣政権は中部発の勢力であったが、近畿圏に政権基盤を持ったという意味では西側の権力であったといえる。
 関ヶ原の戦いは、東西抗争であったがその大名の地理的所属はかなりマチマチだ。しかし、徳川が東として、毛利と島津が西に属していたことが明治維新という西日本の勢力挽回につながる。
 このように日本史を見ていくと東西の分裂と統合は、何故か短期間で生じ解消されることに気づくのだ。朝鮮半島三国時代や南北分裂のように比べると、短い。
 この列島での対立抗争は源平の合戦で5年、応仁の乱で10年、幕末の争乱も長州征伐から戊辰戦争まで1863から1869年までの6年間だ。関が原での東西抗争などは1年もかからないで終結した。

東と西の語る日本の歴史 (講談社学術文庫)

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