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雑草のような雑念と雑考

幕末の攘夷戦争の意義

 幕末の黒船来航と開国騒ぎのなかで急速にナショナリズムが芽生え始めた。攘夷運動だ。その攘夷運動のピークは長州藩の下関事件と薩摩藩の薩英戦争であろう。

 順序としては、薩英戦争が先にある。
 生麦事件に端を発したイギリスと薩摩藩との交渉が決裂。1863年7隻からなるイギリス軍艦が鹿児島市に接近。開戦した。
 薩摩藩は実質的に敗北したが、イギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長・副長の戦死を含む死者13人、負傷者50人)とかなりの善戦をしている。
 薩摩側が水中爆弾3基(地上より遠隔操作)を仕掛けようとしたというのが気になる記事だ。
 イギリスと薩摩が接近する機縁になった戦い、薩摩が海軍閥を支配する淵源になったというべきだろう。

ついで下関事件。
 四国連合艦隊はイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力であり、最新のアームストロング砲を装着していた。長州藩は手製の砲で戦うも敗北。
長州藩死者18人・負傷者29人、連合軍は死者12人・負傷者50人
 だがこれも善戦したというべきではないか?

 当時、完全植民地化を考えていたヨーロッパ列強は地方サムライ集団の暴発を簡単に鎮圧できるとなめていただろう。フタを開けるとどうにも扱いづらい戦闘集団であるとのが痛感された。武力行使による代償は日本のような貧弱な国土に対して見合わない、そんな風潮になったというべきだろう。

 このような地域的な狂信的な武士集団が、なかば近代的な武装を整備して、ヨーロッパ列強に挑んだということ、それが開国後10年で起き、それなりの脅威を列強諸国に与えたということが、その後の日本の歩みに大きな意味を持つのであろう。