アルジャノン・ブラックウッドと老舎、それに我が国の萩原朔太郎が、猫の支配する町についての奇妙な文学を残した。
萩原朔太郎の『猫町』はショートショートといってもいい長さ。「取りとめもないデカダンスの幻覚にしか過ぎない」と詩人は自嘲している。
クライマックスはこのセンテンスのあたりであろう。
見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭(ひげ)の生(は)えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。
さて、なぜ猫が住む町なのだろう?
地方都市を散策して都会からの旅人が感じるのは、人気の無さだ。街角をのらくらと気ままに仕切っているのは野良猫という光景によく出会う。人間どもは猫に住み良い空間を提供し、そのためにアクセクと働いているかのような錯覚をおぼえるのも不思議ではない。
老舎の『猫城記』は(『恐怖の』と形容された)サンリオSF文庫にてお目見えした。中国を火星に見立てたディストピア小説である。その結果か、文化大革命で晒しものにされてあえない最期を遂げた。猫という勝手気ままな肉食系動物に中国人をあつらえたのが遠因かもしれない。
イギリスのブラックウッドは文学的香気とは無縁な怪奇小説作家に分類されることが多い。奇妙なことに彼の猫小説が萩原朔太郎をインスパイアして『猫町』をモノさせている。
『妖怪博士ジョン・サイレンス』ものの一作「いにしえの魔術」がそれである。