中央大学で長らく教鞭をとった木田元は、思想史とくに西洋哲学の近代から現代にかかる独仏哲学思想を専門にされていた。惜しくも2014年に鬼界の人となられたが、去って十年たち、いまなお不在が身に染みる学者の一人である。
その語り口には専門家気風は微塵もなく、平明で親切な心持ちがにじんでいる。ハイデガーの解説などに関してもそうだ。難しいことを難しいままに伝えるのではなく、他の思想家の関連から、柔らかく日常会話の延長で伝えることに専念している。
よくある突き放して自分で嚙みしめろというスタイルではなく、むしろ一緒に考えるという風な文体なのだ。
平成の時代の西洋思想の伝道者というと木田元に指を折ることになろう。あくまでも自分個人の感想ではあるのだけれど。
あわただしく成人期を平成に過ごした身分としては、ときおり彼の書を紐解くことがどれほど俗塵からの禊となったことか。
ハイデガーの晦渋な思想を切り出して料理する腕前は一流だったと思う。だから、ドイツ本国では忘れさられた存在論と現象学の思考の歩みは極東の島国では絶えていないと思うのだ。
同じ大学の教員であった生松敬三との友情も語り草だった。56歳の若さで逝った同学の友を木田元はいくたびも懐古している。自分もなぜだか、木田元と生松との哲学談義のラジオ放送を聴いた記憶がかすかにある。現象学とはなにか、マックスウェーバーの了解社会学とかが、間違いかもしれないが耳の底に残っている。
どこで読んだか忘れたけれど「小野二郎=オノジロウ」とい文化人も親友であったらしい。
今思うと、フッサール現象学が気掛かりな思想となったのも彼らの情熱に感染したせいかもしれない。
この著作は人との出会いについての思索だといっていいだろう。生松敬三や小野二郎など働き盛りで先に旅立った親友たちへの想いも含まれているのだろう。九鬼周造の『偶然性の問題』への彼の読みはこの上ないガイドとなった。


