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憂国の志士たち 生田万と幸徳秋水

 生田万と幸徳秋水をたみくさのために粉骨砕身し、最後には「逆臣」として扱われるという悲運に見舞われた。

彼らの信念となっていた国学社会主義は方向性や時代は異なる。共通点はほとんどないかもしれない。それでも、彼らの行動原理と目標は民衆の幸せにあったことは間違いない。

 民衆を思う、弱者に心を寄せるのは憂国である。2.26の青年将校たちも憂国の士ではあった。

 生田万から始めよう。平田篤胤の門下生は晩期には諸国にわたり千人以上となったという。その数ある門下でも生田万は逸材であったそうだ。

 その統治理念の進取性により館山藩から追放され、新潟の柏崎に移り住む。そこで私塾を営むのだが、天明の飢饉での幕府と藩のふるまいに義憤を感じ、また、大塩平八郎の義挙にも発奮し、わずか数人で奉天命誅国賊と名乗り決起。1837年のことだ。

あえなく敗れて自害した。妻と子息らも自害したという。

 領民の飢えに苦しむのを放置できずに無謀の行動に出たのだ。しかし、それを伝え聞いた師の平田篤胤は「生田万は崇高である」と評している。また、同地の同門の弟子たちが何も協力しなかったことに怒りを表明している。平田国学の政治倫理性は疑い得ないだろう。

 残念ながら、柏崎市には苔むして放置された生田万の石碑しか残存していないようだ。

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 明治時代を騒がした大逆事件の主犯に仕立てられた幸徳秋水もまた、資本主義の伸展で虐げられた人民の幸せを求めて、師匠中江兆民の意思を継いだ志士だった。

 平沼毅一郎のような脳細胞が干からびた下僕にからめとられて、虫けらのように死刑される所以など一豪もなかった。その内縁の妻ともいうべき菅野すがとともに死刑台のつゆと消えた。が、しかし、歴史の教科書には名を残し、その美風は日本精神に伝わったといえる。

 晩年の平沼が東京裁判A級戦犯になったのは因果応報というべきか。

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 ともかく、平田門下の国学者であろうが社会主義者であろうが、民衆の幸せを求めた有言実行の人びとは神社に祀って然るべきと思うのだ。

 

【参考文献】

 自分の心情は徳富蘆花に一番近いのだろう。なんとも時代遅れ!

 

 平田篤胤の現代的な評論。ただの矯激な右翼思想家ではなかった。