「心を燃やせ」
火炎土器を作り出した縄文人たちに共感して、煉獄杏寿郎なら必ずこう言ったろう。
長い縄文期のうちの一瞬、5,300年前から4,800年前の約500年間に生じ、火炎土器は消えていった。
彼らは何を想いこの装飾性の過剰な土器を製作していたのか。
新潟を中心とする信濃の一部、北陸から東北の日本海側の地域は最盛期でも1万人以下の人口だっただろう。
その日を生きるのに精いっぱいで、暇をもてあます人など論外、人びとにとり余剰な時は多くない。
燃すものの確保や粘土の採取など貴重な資源を採取にささげる作業は大変なものだったろう。
我らにとって数千年の遺産である火炎土器は貴重なものだ。縄文人にとっても土器は伝来の遺産だったろう。父祖の使った土器を見て刺激を受けてさらなる装飾を付加していく営みが、わずかに垣間見る幻想をはぐくむのが生活の中心だったのかもしれない。
新潟県長岡市にある馬高縄文館で多数の土器の実物にふれて、我らの遠い先祖の精神をつぶさに感じ取ることができた。明日の知れない苦闘の連続といった日々が彼らの大半の暮らしぶりだったはずだ。その苦難の日々のなかで心を燃やした対象が装飾土器であり、それが心を打つ。
岡本太郎は1950年代に芸術品として縄文土器を再評価した。縄文人たちの激しい超自然的な営みがそのまま結晶化した。岡本太郎は炎舞する土器たちを四次元との対話と表現した。
いずれにせよ、今に至るまで芸術品として普遍性を獲得する高みに火炎土器はある。縄文人の情熱は現代人にも伝染するものなのだ。