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雑草のような雑念と雑考

「はじめてのおつかい」と逝きし世の面影

 Netflixで『はじめてのおつかい』が諸外国で放送されて論争をよんでいるとの報道があった。

 

『はじめてのおつかい』がアメリカで巻き起こした大論争

 

 要するに、年端も行かぬ子どもに一人で買いものに行かせるなど、アメリカでは非常識このうえもなく、親権がはく奪される行為だ。にもかかわらず、なぜこんな行為が現代社会で可能なのか、正しいことなのかどうかを含めて論争となっている。

 治安の悪さ、公共交通機関の劣悪さ、他人への信頼の瓦解あるいは社会の分断といった状況におちこんでいるアメリカは、かつての誇りであった自国文化への自信を喪い、自己嫌悪に陥っているのであろう。

 だから、この論争の争点は日本のような安全な社会だから成り立つのは承知の上で、アメリカ社会(ほとんどのヨーロッパ社会)で喪失してしまった幼少時の自立の機会を見直しているのだろう。

 事実、アメリカ社会だって、テレビシリーズの『大草原の小さな家』やマーク・トゥエインの「トム・ソーヤの冒険」「ハックルベリ・フィンの冒険」の時代には子どもが自由に街中や野原を駆け回っていたではないか!

 そうは言いつつ、思い出すのが渡辺京二の名品『逝きし世の面影』の「子どもの楽園」だろう。

 19世紀半ば、開国したばかりの日本を訪れた欧米人たちの手記を再構成してものだ。

同時期の欧米諸国の生活と対比されていることに注意しよう。

 

「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少ない」とネットーが書けば。

 あの知日家のモースは「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」

モースはアメリカの東海岸の出身である。

「日本の子供は歩けるようになるとすぐに、弟や妹を背負うことを覚える。彼らはこういういでたちで遊び、走り、散歩し、お使いにいく」

 こういうブスケの指摘は「はじめてのおつかい」に通じてるものがある。

アメリカ人のヒュースケンはこう記す。

「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうに文明なのか。この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」

19世紀の欧米人が当時の日本の純朴さを嘆賞しているのだが、なぜここまでキリスト教文明国を悲惨と断じるのか、判断するすべはない。だが、アメリカの都市生活は子供たちにとって安心できるものではなくなったのは、意外に早かったのかもしれない。

さいごに親日家のモースに再登場してもらおう。

「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」

 

 渡辺京二が過去のものとした、日本人の礼節とかおもてなしとか、清潔さ犯罪の少なさとかは「逝く」ことはなく、ある程度は国土にとどまったようだ。

 当時の貧しい国民がいかに異国人を手厚くもてなし、乏しい懐でもてなし、ままごとのような手仕事の宝石のような品々で幻惑させたか!

それを思えば、多少貧困でも心の豊かさがあれば、万事OKなはずなのだ。

 少しは日本人の慰めになるかな。

 


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 たぶん、もっとも心を込めて逝きし世の日本を描き出したのは小泉八雲だろう。多少、引き倒し感もあるが、日本の精神の幻郷がたなごころに愛玩されるように描きだされている。