20世紀の最後の20年くらいから小説としてのSFはそれでなくとも片隅に追いやられてきた。映画やゲームはSF的なアイデアや発想を自家薬籠中のものにして、SFネタが含まれないのような作品は数が少ないくらいだろう。
タイムトラベル、戦闘ロボットやアーマードスーツ、粒子ビームやバリヤ、宇宙人や怪獣、異次元や多世界、外宇宙、ワープ航法、テレポーテーションやブラックホール利用、身体や遺伝子の自在な改変、急速な進化や異能力覚醒、広域通信とデジタルワールド等々のアイデアがある。
いずれも近代科学や技術の進歩にインスピレーションを受けて、花開いた想像力の爆発の賜物(たまもの)であるのは違いあるまい。つまり、時代の産物としてのSFネタであったわけだ。
でもでも、その想像力の爆発と素晴らしき新世界の新規性はどうやら失せようとしている。なにしろ、小説が主体ではなく、ビジュアルが主流となってSFは意味を拡散させてしまった。本義はうせてアイデアの面白みやそれが開拓するビジョンは稀薄になった。
SF的アイデアはコモディティ化していて、それが風刺や脅威や希望や幻滅につながっていないのだ。まるでおとぎ話や童話を見ているようなものだ。芝居の道具や書割りにすぎない。
そうなるのは無理もない。科学技術の進歩はある方向に定まってきたのだから。
AIや通信などのIT系サービスの高度化やら遺伝子研究の医療や農業応用やら、モビリティの高機能化(高速化ではない)などだ。宇宙観測や近隣の惑星探検も含めていいかもしれない。
いずれにせよ、それは20世紀に元型となるアイデアはSFとして描かれているといえる。現実が想像を超えるような時代に生きている、21世紀の状況はそういうわけではなさそうのだ。
SFの名訳者であった浅倉久志氏の遺著というべき書評集みたいな本を読んで、つくづくそう感じたわけです。
言外にSFの黄金時代は終わったといっているようでした。