規模において1840年のアヘン戦争と1863年の薩英戦争は比較にはならない。アヘン戦争はイギリスと清の正面衝突であったし、期間も2年に及んだ。一方の薩英戦争は日本の雄藩とイギリス艦隊7隻との短い期間(2-3日間)の戦闘であったのだ。
それでも、局所戦としての1841年の広東の虎門の戦闘は薩英戦争の鹿児島湾の戦闘と比較する意味はあるだろう。
英艦隊は虎門の第一関門を挟む沙角と大角島の陣地を攻撃した。英国は陸戦隊の1400名も投じている。もろくも数時間で両要塞は陥落。
イギリス側に戦死者は無し。負傷者38名だった。清国は戦死292名(将校44名)、負傷者463名だったという。
23年後の薩英戦争はどうだったか?
生麦事件のあと、英国は5隻の最新鋭艦を鹿児島湾に差し向けて、薩摩の陸上陣地と砲撃戦を行う。
英国側の損害は大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人であった。薩摩側は戦死1名、負傷者9名、汽船3隻と市街炎上だった。
英国側は艦長も失い、鹿児島湾から撤収する。人的結果でいうと死傷者数のうえからは互角以上の戦闘だった。薩摩藩は善戦した。
しかしながら、破れた薩摩藩は英国に和議を申し入れる。
この後、英国と薩摩藩はお互いの力量を認め合い、協力関係となってゆく。国内において薩摩藩の実力は高く評価され、国際的にも一目置かれるようになったわけだ。
アヘン戦争と薩英戦争には20年の差がある。その間、西国雄藩は危機意識に燃えて、西洋砲術を独習し、ここに一矢報いたと言えるだろう。英国はここで日本に対する外交戦略を転換することになる。そもそも大した資源がない国であるうえに刃物で直様斬りつける士族がウヨウヨしている危険な国なのだ。
林房雄が書いているように「雄藩は敗北したが、その敗北は他の東亜諸国で起きた敗北とは異質だった」
【参考文献】