以下、まことに品位を疑われる尾籠な話であります。
でかい鼻くそがとれたのちのすっきり感を経験した人は多かろう。それよりも多いのは宿便が通じて晴れがましい爽快感の体験者だと推測される。
この両者は身体の部位こそ違え、開放感は共通なフィーリングである。
これを共通感覚と呼んでいいのだろうか?
感じる部位や規模感はかなりの開きがある。鼻くその停留がストレスになるには違いないが、大便ほどの存在感はないように思える。それらが除去されることのフィーリングは同じだと言ったら、鼻孔の感覚細胞と直腸の感覚細胞は不満をもつかもしれない。
目くそ、鼻くそを笑うではなくって、なんというか鼻孔と比較されるのは直腸&肛門にとっては不平等であるかもしれない。あるいは鼻孔は気位が高い(鼻だけに)ので、
下半身の孔と対比されるのはプライド問題になるやもしれぬ。
しかし、荘子の「渾沌、七竅に死す」にて扱われているのは頭部の孔だけであり、それらが自然状態にあって安定していた渾沌にとって害悪となったわけだから、鼻孔もないほうがいいかもしれない。
鼻孔のカスについて論じた書物というのを自分は知らない。おそらく鼻を扱う小説も芥川龍之介とゴーリキの短編くらいだろう。鼻は重要なポジションにありながら、軽視されている。
2月早々、つまらぬ問題に捉われたものであります。これもコロナのせいであろう。