2020年はネット利用がコロナ禍により一段と進み、生活に深く浸透した一年だった。 リアルの代表的イベントであったオリンピックは延期を余儀なくされたことに象徴される。これは歴史的事件といっていいだろう。
主観的な印象では放送局は存在感をどんどん失いつつある。
Netflixに代表されるVODあるいは動画ストリーミングサービスが映画館と電波によるリアルタイム放送を駆逐した。もちろんビデオレンタルというかDVDレンタルは影を潜めてしまい話題にすらならない。
小売店は外食産業も含めて閑古鳥が鳴いた。衰退産業だったデパートだけでなく大型のショッピングモールもそうだった。いずれもネット通販に圧倒されたわけだ。例外はコンビニとニトリくらいだろうか。
観光業や旅客運輸産業は奈落の底に突き落とされた。外出と県外移動制限は死刑宣告にも似た作用を観光と旅客運輸に及ぼした。先年まで右肩上がりだったインバウンドはかき消すようになくなった。旅行やビジネス出張はネットに乗り移ることになった。
テレビ電話はネット会議というネーミングで当たり前の光景となった。それを活用するテレワークは一部の人たちには受容された。そういう業種もあるだろうが、一概に当てはまるわけでもないだろう。
何よりも職場で起きている細やかな変化や仕事の非言語的コミュニケーションに曝されないのが、テレワークは生産性にプラスになるとは思えない(各員の独立作業が意味あるような業務は別かもしれないが)。
しかし、今までよりは遥かにテレワークは定着するだろう。
公的な仕事や付き合いだけではない、私的な交流においても当たり前となったわけだ。
つまり、バーチャルがリアルを侵食した一年だったわけだ。
懸念材料として、こんなのがある。
デジタル通信はコピーされやすく捏造されやすい。やがてはビジネスでもプライベートでもなりすまし映像に騙される事件が起きるようになるだろう。
今まで親密だと思っていた知人やクライアントが存在しなかったり、死んでいたり、騙していたりということがありうるわけだ。そうそう往年のSFファンなら、フィリップ・K・ディックの小説に描かれたストーリーを連想するだろう。
ひと度、日常生活から道を踏み外すとエントロピーの暴風に巻き込まれてしまうという、あれだ。ネットのおかげで、身に覚えのない不条理な事件に巻き込まれてしまう危険性が、卑近なものになった...。
そこまで極端なことはすぐに起きないだろうが、自分の憂慮はもっと些細なことだ。
多くの人たちは街角の「おもちゃ屋さん」の消失に気づかないままにいた。子ども時代におもちゃ屋の展示物に魅了された体験がない人はいないだろう。しかし、今の子どもはそれを知らない。
アメリカの子どもは、日本の子どもより悲惨だと思う。ショッピングセンターにさえおもちゃ屋がない。アメリカのトイザラスはショッピングモールの衰退とともに破産した。
ネット社会は宣告する。
これもバーチャルの侵食の一例だ。
ウィンドウ・ショッピングは効率化とコロナ禍でどんどん縮小していゆく。リアルな商品は買わないと体験できない、そういう消費形態に移り変わるのだ。
五感のうち視聴覚だけが特出するようなワーク&ライフスタイルというのが、政治、文化、社会生活、外交、エンタメなどをみるみると変容させてゆくだろう。
デジタルデバイドも一方で残ることを考慮すると、これは、けっこう、大事ではないだろうか?
ITの急激な進歩によって歪曲された未来社会に、僕たちは生きている。そういう矮小化された生活空間に閉じ込められている。A.C.クラークが望んだような太陽系いっぱいに広がった広大無辺な人類社会なんてのは、別の世界のはなしだった。
やってこなかった未来の夢想をアニメでも託すしかあるまい。社会の分かれ目、それは1990年ごろに分岐点があったはずだ。
川井憲次 - Kenji Kawai - Theme of PATLABOR 2 -Kenji Kawai version- (機動警察パトレイバー2 the Movie プレ・サウンドトラック)