ランダムなメモランダム

雑草のような雑念と雑考

定年後老人の形而下学的な省察、あるいは爺さんでいっぱいな公園ベンチ

 日本の老人、とりわけサラリーマン人生を終えた男性の生き方は、ジトジトして湿っぽく、完全な不幸というわけでなく、いわばリンボに住んでいるような状況にある。
 もともと、会社組織においてはそれなりのポジションを持ち、必要とされており、ほぼ生きぬくための精力の大半を組織人としての道を進むことに傾注していたのだ。功成り名遂げて身退くは天の道なり、のハズだった。
 案外、当てが外れた老人は多いだろう。それを物語るのは平日のひだまりの公園ベンチや開館一番の図書館の席やショッピングセンターの廊下の光景だろう。
そこにあるのは為す術もない老人の縄張りだ。
 
 働くことが働かないことに、余暇のための仕事から解放され余暇を消費するだけになり、組織から家庭に、再びアイデンティティと居場所を求めるモードに切り替わったわけだ。定年後の準備をしてきた人間でなければ、会社というクルーズ船からいきなり救命ボートに移されたような精神状態になるだろう。
 江戸時代には隠居というライフスタイルがあった。これは身近な例では、落語の描く下町の長屋の生活がそうだろう。ご隠居さんは、悠々自適、余裕綽々でクマさんハチさんに説教を垂れている姿があった。定年後の男性はいかんせん長屋暮らしから縁遠いことだろう。教訓や説教する相手がいない。若手は自分たちの生活を追求するのに忙しい。隠居の知識や経験が役立つのは21世紀の日本ではかなり限定されているようだ。冠婚葬祭ですら、今の隠居は出番がないし、期待される役回りも多くない。
 
 これは地方にいくとだいぶ事情が違う。働けるうちは地域社会に必要とされるからだ。祭りや草刈り、交通整理やゴミ拾い等々コミュニティ維持の役目が山ほどある。
 よって、大都会周辺に住み、大企業に奉職してきた仕事一筋の元ホワイトカラーなどが冒頭の社会現象の主人公たちであるはずだ。
 そうした会社人間は行き場をなくしている。
 
 であるならば、やはり意識変革というか、ものの見方を変えることから始めてみてはと考える。古人の知恵に学ぶのだ。
 東洋の生き方、とくに中国の道家思想は老いというものを肯定的にとらえている。列子黄帝編などでは老いた状態というのが人の完成形に近いものとして描かれている。働くことの意味も荘子では180度現代人と異なる価値判断を説いている。
 組織(列子荘子の時代は役人や臣下になる)に属さない生き方、つまり働かないこと=無為自然の生活というのがポジティブなものであるというのが道家思想だといえる。
 さらに、貨幣を費やして生きる余暇の過ごし方などは近代資本主義的な産物でしかないだろう。その典型が物見遊山と買い物で埋め尽くされた旅行は自分自身から遠ざかるアンチ無為自然の行為でないだろうか?
 おばあちゃんの寿命が長い、あーつまり、女性の寿命が統計的に長いことも、もサラリーマン人生を終えた男性としては、よく考えてみる必要がある事実だ。