日本人の曖昧模糊にして風見鶏のような国民性や政治のあり方は、お隣の韓国人のそれに比較するととりわけ際立つ。彼らの政治運動の振幅の激しさは秋霜烈日にして襲爪雷斬だ。韓国の歴代大統領が政権交代で無傷でいられないのが、その証拠。
どうして、そうなるのかを彼らの文化的伝統から考えたい。
自分の説はこうだ。
独立して70年以上経過しているのに、未だにナショナリズムが国民の頭の中を独占している。彼らにはそれ以外に拠って立つものがない。
どうして、そんな隘路にはまったのか?
文字の国であったはずの朝鮮は、訓民正音に囚われて、漢字の伝統を切り捨てた。それとともに文化的伝統が国民精神から、文辞的余情がかき消すように喪われた。
漢文による文学や思想や歴史はそれこそ山程あるだろうに、国民は直接アクセスできない。とりわけ仏教の知的遺産が宝の持ち腐れと成り果てた。もっとも、李朝朝鮮より前の高麗時代に仏教は支配層から見捨てられいる。
それよりもいっそう深く、国民の精神形成の狭隘さをもたらしたのは、民衆文学の貧困だと思う。我が国の万葉集や和歌、俳句、日記、軍記もの、説話文学、宮廷上流文学など豊富さに比較して、朝鮮文学史を漁ったものは唖然とするだろう。
なんという空虚、薄さ、喪失、そして貧しさなのか!
嘘だと思うのなら小倉紀蔵の「朝鮮思想全史」を見てほしい。過去からの通史としての朝鮮文学史という本は日本にはない。
不幸にして失われたか?
そうではない。
高句麗・百済・新羅の三国時代の文芸作品。新羅の郷礼がわずかに残存するのみ。高麗時代は麗謡なる歌が42首残存。李氏朝鮮の17世紀に訓民正音(ハングル)による大衆文学がようやく花開く。といっても「朴氏夫人伝」と「洪吉童伝」など名作はあるのものの層の薄さは否めない。つまり、近代以前の「民衆文学」というのはジャンルとして存在感はゼロなのだ。江戸期の馬琴や芭蕉に相当する人がいないのだ。
かつての王朝の文人たちはひたすら中華文化を焦れて、それのみを目指した。中華の理解の正当性、儒教理念の実現がすべてを支配した。自民族の伝承や文化、民衆や自然な情感を軽蔑し、顧みられることは皆無に近かった。
叙情性の余裕のなさが文学的伝統の貧困に現われたのか、それともヤンパン階級が朱子学に猛り狂ってひたすら純粋な理気を目指した影響なのか、自分にはどちらとも言いかねる。
ただただ、ため息をつくだけである。
それでも、海外での韓国の映像作品やKポップスのブレークは耳目を驚かせるものがある。
その理由はなんであろうか?
しがらみに捉われないで現代の世情を機敏に取り込んでいるのが特徴であると自分は思う。これは文学的伝統とは別物であろう。ハリウッド映画が世界に受け入れられていたのは、アメリカ文学の伝統の由縁ではなかったように、今を生きる人びとの心情を掴む能力は別ものなのだ。
【追記】漢字を捨て去ったことも文章表現上の精細さや多様性を減じるといわれている。ハングルのみでは同音異義語を判別することが難しい。ひらがなよりは音素の種類が多いので日常は困らないだろう。でも、日本語の文が漢字を含むことで、どれほど伝えたいことを言い当てられるかは、文章を書く人は皆、感じていているだろう。
例えば、感情についての漢字表現。
起伏が激しい、動揺する、機微をつかむ、一喜一憂する、情緒不安定な、押し殺す、苦虫をかむ、業腹(ごうはら)である、癪に障る、憤慨する...。
これらの漢字が使えない小説や詩はなんと貧しいことだろう!
全ハングルの文章はそういうものに近いのだ。
【追追記】
在日の方々の文学というのは日本近代文学の重要な一翼である。文学的表現の才能や衝動には欠けることがないのは明らかだ。伝統的な朝鮮文学の貧困は、文化的な抑圧が民衆の芸術活動を阻害していたためだ。在日文学はその副次的証拠だろう。
【参考文献】
ちなみに客観的専門家である小倉氏も本書の末尾で韓国社会における悲惨なまでの理念崇拝の惨状という詠嘆のことばを吐いている。
特派員報告でもある本書は、韓国社会の現状を語っている。分断社会において反日運動はひとつの現れでしかない。
偉大な朝鮮仏教の歴史と遺産を知ることは倭人の義務かもしれない。