神話や古代宗教などについて、日本の神道や民俗文化と古代ギリシア世界のそれとを比較することを随分とむかしから、頭の中でブンブンと廻している。
個人の好奇心で一人黙然と読書しながら考えをめぐらす。それはそれで楽しいのだが、あまりプロダクティビティがない。
そんなことに興味があるのは、比較宗教学の専門家くらいなのであろう。特殊なテーマ過ぎて、身の回りでは会話レスだ。そうだねえ、興味を抱いてから、30年くらい経過したけれど、まったく会話レスだねえ。
ブー!ブー!
言葉にならぬほどのどん底レベルの悲しさから、微かな悲哀、哀傷というものまで、その度合いを適正にスケール上に配列することはできるのだろうか?
悲哀の尺度だ。桜が散るのを見送るのがgrief 1だとして、肉親や恋人と引き裂かれるのがgrief 10だとしよう。
我が日本のソフトパワーは漫画とアニメにひとえに依存しているようです。
ジェンダーの差異として注目されるのが、か弱い女の子を保護する系(「盾の勇者様」)と無性格な女子に惹かれる(綾波レイ)的なキャラクター設定の根強さ。
その根源に何があるかは、自分には理解できていないのではあるが、「ピュグマリオン」とネーミングして外れてはいないと確信した。
かの偉大な喜劇作家バーナード・ショーによっても現代風に同じタイトルで演劇となった。あるいはフロイトの深い論評で知られる「グラディーバ」(ヴィルヘルム・イェンゼン作)もそうした流れに位置している。
また、戦前のドイツ映画の古典『メトロポリス』や世捨て人の孤高の文学者リラダンによる空想文学『未来のイヴ』もこのカテゴリに入れることができよう。
自分好みの女性を育てる願望っていうのは、菊池先生にも取り上げて欲しいかも。
「時とはなにか」についてアウグスティヌスは「問われなければ、知っている」
とした。
ゲジゲジか、それともヤスデだったかも昔ばなしのなかで、「どのように移動しているか」と問われて「足の動かしかたがわからなくなってしまった」そうだ。
ここから得られる、統合レベルの教訓はなんだろうか?
「時とはなにか」という問いで、かえって「時が何だか全く理解できなくなり、社会生活に不便をおぼえてしまう」こともあり得るということだ。
そういう生真面目さが哲学の道に通じるということだ。
聖アウグスティヌスは自身の歩みを振り返るときに、時間の問題に遭遇した。
『告白』の第11巻の十五章にある。
時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである。
いまどきのDX化は何でもアプリに載せて、スマホなどユーザ起点&負担ですべての処理を自動化させようという発想でビジネス変革を進めているように見受けられる。
これは、一面、きわめて自然な流れだろう。個人のニーズや情報はその当人に任せ、間には人を介さない。省力化と省人化、いつでもどこでも処理ができる。しかも、コストダウンがついてくる。セキュリティさせしっかり保護すれば、ほぼ満点と誰でもそう思うのだ。
労働力人口が不足していきている少子化社会には、持って来いのトランスフォーメーションだと誰しもが考えるのはわかる。
だが、しかし、高齢者社会には不向きなのではないだろうか?
アプリの使い方がわからない、いや、それどころかスマホの画面の文字も音声もようよう聞き取れない。用語がわからない。そうかといって、頼みのコールセンターはつながらない。パスワードはアプリ毎、サービスごとにメモしておかなくてはならない。
だいたいセキュリティが厳しいのでパスワードを失念したら、正規の面倒な手続きを踏んで回復するまで、しばしの間何もできない。急ぎの用事ほどそういう事態が発生するのが、マーフィの法則だ。
当人がどんな有料サービスに加入しているかも、次第にあやふやになる。つまりはサブスクリプション手数料はトラレゾンになる可能性がある。下手すると年金以上にサブスクでマイナスになるかもしれない。請求書が紙で来るわけではないので、第三者にはわからない。最近は、通帳もWeb通帳だから、どう引き落とされているかわかないままになる。
何とも皮肉な事態ではないだろうか?